朝露通信

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小説家、保坂和志さんの新作『朝露通信』。じつに不思議な感触の中編です。書き出しはこう。「たびたびあなたに話してきたことだが僕は鎌倉が好きだ」。ヴィクトル・ユゴーの『ライン河幻想紀行』から引用したものだと作家本人がおっしゃるのを聞きました。というのも、つい先日、下京区にある徳正寺で開かれたトークライブへ参加したのです。

折しも観光シーズンで人がごった煮にごった返す烏丸ー河原町間の四条通を南へ、ビル街の路地に開け放たれた門をくぐってつき当たり、お堂にはすでに50人は下らない参加者がめいめいの姿勢で今日の主役を待ち構えていました。間もなく保坂さんが登場、マイクを握るや打ち解けた感じで小島信夫の作品への言及があり、以後切れ目なく刺激的な考えが数珠つなぎに展開されて、寄り道も脱線も道なりにゆるやかに聴衆の集中を絞っていく、あっという間の2時間でした。

出だしから「たびたびあなたに話してきたことだか僕は小島信夫が好きだ」という作家の声を聞き取った私は、保坂さんが目の前で思考し、しゃべっているとしっくり腑に落ちたのでした。

新聞紙上での連載がまとめられた本作は、見開き1ページで1章、全185章からなる明快な体裁を取りながら、作者に擬せられる語り手の「僕」が、連想につぐ連想で記憶のたゆたいを泳いでいく息の長い小説です。目に浮かぶのは「川」のイメージ。ぐねぐねと入り組んだ流れが、途中たくさんの支流を巻き取りながら、意味のあるなしを越えたところで水音を立てている。何かを運びもすれば留まらせもし、育みもすれば殺しもする川。じっさい、この小説には山梨と鎌倉を中心に、多くの河川が登場します。

そうして背景に山。「山というのはただ土地が盛り上がって高くなっているわけでなく、地面の力、地球の重力と闘って立ち上がっている」。この一節の語り手の素朴な感興に共振を覚え、得体の知れぬ物語の重みをひとり支えきる作者の姿を見て私は胸が熱くなるのです。

透き通った朝露を分解したようなイラストの表紙が印象的な本書は、店頭日本文学のコーナーにて販売中。

 

(保田)

悪童日記

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映画『悪童日記』を劇場で観ました。私は先に原作の翻訳小説(アゴタ・クリストフ堀茂樹訳 / 早川書房)を読んでいたので、映像で後追いするかたちになりました。こうすると物語の筋が頭に入っているので、映画の展開が読めずはらはらする楽しみは減りますが、そのぶん落ち着いて細部へ目を凝らすことができます。原作に忠実なシナリオで、良い意味での裏切りもなく、それがかえって目に見える動きや音声を伴う映画ならではのインパクトを際立たせるように思いました。

本作に関しては、映画を観る前にしろ、観た後にしろ、原作へ触れるのを私はおすすめします。こと小説に限って、主たる魅力はその文体にあると考えるからです。語り口のすばらしさが、この作品の良さを決定づけています。

語り手は主人公の双子の少年。第二次大戦末期、敵軍の攻撃から逃れるため親と離れ、会ったことのない祖母のボロ家に疎開し、過酷な労働を強いられます。そこで彼らのつける日記がそのまま作品であるというメタフィクション的な体裁で、われわれ読者はそれを盗み見る立場に設定されます。いわば『アンネの日記』のフィクション版。

日記それ自体の記述の中で、日記のルールが明かされているのがおもしろい点です。ルールはひとつ。純客観的な事実のみを記すこと。これを採用するのが書き手である少年たち自身であり、この決まりを例外なしに遵守するのも彼らであって、生き残るためにそうしなければならない切実さがまことに痛々しいのです。

ルールとはつまり彼らの倫理であり、客観的見地というのも結局は彼らの主観のフィルターを通したものに過ぎません。お互いの作文を添削し合って「良」と判断したものだけを日記に清書するので、二人の間の幼い相互批評にのみかろうじて客観性が担保されるわけです。ただし彼らの人格は二人でひとつ。いつもどこでも一緒にいて、どちらが欠けても成り立たない。そこからの脱皮が物語の終盤のハイライトになっています。

自分たちの倫理を即、行動原理に結びつける少年の純粋性は、たとえ戦争という異常な状態にあっても社会との軋轢を生まずにいません。しかし、そのむき出しになった非人道的な環境が、異様に研ぎすまされた純粋を育むのが戦争の恐ろしさです。

翻訳もすばらしい本書。優れてシニカルな邦題ですが、原題は「大きなノート」といった意味のようです。ハンガリー生まれの無名の著者が、亡命先のスイスからパリの名門出版社へ無謀にも原稿を送りつけたのが出版のきっかけだということですが、邦訳者もパリの書店で偶然発見した原書に入れ込み、早川書房へ翻訳を送りつけ日本語版の刊行にこぎ着けたというのも因縁があって良い話です。

そうしたエピソードも楽しみつつ、小説の語りのおもしろさを存分に味わわせてくれる本書。この機会にお手に取ってみてはいかがでしょう。

(保田)

『ひとり料理 これだけあれば』、があれば。

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10月初旬に『ひとり料理―これだけあれば―』(京阪神エルマガジン社)が店頭に並んだ時、「あぁ、やっぱり料理しなければならないのか」と感じたのを覚えている。こういう書籍が出版されていることはおそらく単身者の食生活が想像の通り悲惨な状況だからだろうが、忙しさを理由に料理をしない(できない)一若者として一種の罪悪感のようなものがあった。いい歳をして、料理ぐらい作れなくてはなぁ、と。

もやもやしながらも、レシピ本としてはかなり小さく手に取りやすい本書(134mm×210mm)を開いてみると1ページに大きく、

なんで料理したほうがいいの?

と書かれている。この一言だけで一般的なレシピ本とは一線を画していることがわかる。本書は読者に全く期待していないのである。しかしそれだけで、本当に料理をしない人にとって楽なことはないのだ。 話は料理に入る前の段階、調理道具のこと、調味料のことへと進んでいく。レシピの前にはレシピの使い方を、やっとレシピにたどり着くも取り上げる野菜は「玉ねぎ」「キャベツ」「大根」「じゃがいも」「にんじん」の5種類だけ。章立てになっており、それぞれの素材が○○gでどれくらいの大きさであるかを実寸大写真で掲載し、素材の切り方、余ったときの保存法、腐ったとき野菜がどうなるか(じゃがいもやにんじんが腐った絵はなかなか恐ろしい)、そしてどの程度食べることが出来るのか事細かに書かれている。お分かりの通り、「これぐらい知っているだろう」という期待が全くない。

素材も道具もフル活用の「これだけあれば」ルール、初心者向けに書かれているのにしっかり応用力がつくように計算されているのも驚くべき点である。たくさんのレシピを覚えさせるのではなく、基本の調理法を色んなレシピで活かすことによって素材の扱い方やその調理法のコツをつかめるので、自然と「あの材料を使えば違った料理が出来るかも」とレシピに支配されない自分の料理へとつながる仕組みになっている。本来、料理とはそういうものなのだ。

お金さえ払えば24時間いつでも完成された食事が手に入る時代に生きていると、作ることと食べることが切り離され、自分と食べることの間に物語を見いだしにくくなっているのかもしれない。そんな方に是非お手に取って頂きたい一冊。本書によれば、「何気なく手を伸ばした食べ物の裏に貼られたシールを見ることから、料理は始まっている」とのこと。 しかしながら店頭で見ていると、本書を手に取られたり購入されたりするのが若者だけではなく、40〜50代の奥様方が多いのも面白いところ。料理をしない一人暮らしの息子(娘)さんへの贈り物なのか、はたまた「これだけあれば」ルールの使い回し・使い切り・買い足しやすさは料理のベテランも目から鱗の普遍的なものなのか…どちらにせよ一般的なレシピ本と一風変わったスタイルは必見。

店頭・オンラインショップにて販売中です。


ひとり料理 これだけあれば|恵文社一乗寺店

(冨永)

いつか来た町

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ぼんやりしているときによく、ここではないどこかの場所を考えているときがあります。歩いてすぐ行ける場所であったり、自転車やバスを使って足を伸ばしたり、電車を乗り継いでたどり着く街。長い時間かけて行きつく道。自分が歩いたときのことを思い出したり、自分がいないそこへ思いめぐらしてみたり、住む人のことを考えたり、迷って結局選ばなかった道の先を思ったりします。

過去に自分が訪れたところと同じくらい、行ったことのない場所も考えます。本で読んだり映画で見たりしたところ、名前だけ知っているところ。思い立って行ける場所があれば、もう行かれないところもあります。そのどれもひとしく懐かしいのが不思議です。なくなってしまった店のあの椅子、車窓から見えては通りすぎた家の物干し、いま歩きすぎたばかりのたばこ屋。ここでこうして思ってみれば、なべてひとしく懐かしい。

つらくも苦しくもないけれどもの悲しい。そんな心の動きを思い返させてくれるのが『いつか来た町』(著者:東直子 / 発行:PHP研究所)です。短歌のほか、さまざまな文筆のお仕事をこなされる東さん。一章につきひとつの町をテーマに、ご自身の経験や知見から連想を膨らませた短いエッセイを集めた一冊です。

読んでみて、気取った言いかたですが、文章が歩いているという印象があります。人が歩く速度で綴られ、歩くときに人が考えるとりとめもないような思いが、すっきり読ませる文章になっている。うまいなあと感じ入ります。

歩き方は人それぞれ、同じ人でもときどきによって速度は変わります。弾むような軽快な足取り、はじめての道を踏む戸惑いがちの一歩、物思いにひたってつま先を見つめながら進める歩み。そういった心のはたらきと連動した身体の動きが、いきいき伝わる文章です。

そして目線のすばらしさ。目的をもって歩くときに見落としてしまうもの、また目的をもたずに歩いて損なわれるテンポと姿勢の良さ。どちらもキープしながら、そうしなければ見えてこないだろうたくさんのおもしろいものや出来事を、きれいにすくい取って紹介してくれます。広い観察と尽きない好奇心に支えられた、東さんの健やかな歩みに同行できる喜び。

こういった街歩きの随想を手に取ると、やはり自分の住む町がどのように眺められたのか気になるものです。京都の回では、風景や町の佇まいが美しく描写されるのにほっとする一方、住む人間には気がつかない指摘に驚かされもします。福永信さんやいしいしんじさん、綿矢りささんといった京都の作家さんに加え、ヌートリアなんかも登場する賑やかな回。ぜひご一読を。

さて、今月27日(木)、著者の東さんが当店へお越しくださいます。本書の刊行を記念してのトークイベントで、本編では収録されないこぼれ話も聞けるのではと今から待ち遠しく思います。イベントの詳細/ご予約はこちらから。ぜひ本書をお買い求めのうえ、皆さまふるってご参加くださいませ。

 

(保田)

 

幸福と想像力

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今回ご紹介するのは、フランスの哲学者/教育者アランの『幸福論』です。本名エミール=オーギュスト・シャルティエ。ナポレオン3世の時代に生まれ、二つの大戦を経て1951年に83歳で天寿を全うしました。46歳のとき志願し第一次大戦に従軍、名門校の教職ポストを捨て、安全な後方任務の誘いも退けて自ら重砲兵を希望し前線へ赴くという冒険家でした。

世界史上もっとも有名な幸福論のひとつに数えられるこちら。現在手に入る邦訳でも、岩波文庫集英社文庫をはじめ7種類ほどあります。特徴といえば、著述の形式、また、そもそも論説として一冊にまとめることを目的として書かれたわけでない点でしょうか。

教師をしながら地元新聞へ週にいちど、日々の雑感を便せん2枚にまとめたプロポ(考察)を投稿していた彼。その短く簡潔かつ平易な言葉で考えを綴った連載が人気を得、そのなかから幸福に関するものを取りまとめたのが本書なのです。(ほかにも芸術や宗教などテーマごとに編集された著作があります)。

内容について、くり返し述べられるのが想像力の使用法といったものです。とくに、想像力の良くない面や悪い使いかたを強調しています。たとえば、ほんのささいなことに驚いて泣き叫ぶ赤ん坊。赤ん坊は不安の原因がわからないためそうするのであって、想像力が恐れをふくらまし、たいてい激しく泣くことでさらに具合を悪くしてしまいます。また、何をしてもいつもじりじりと不機嫌でいる人。彼は不機嫌そのものが、悪い連想によってつぎの不機嫌を際限なく呼び寄せることに気がつきません。

こういった想像上の恐怖やいらだちを克服するには、現実を直視することだとアランはいいます。赤ん坊に対しては、一緒になっておどおどしたり叱ったりするのでなく、身体に触れるなりやさしい言葉をかけるなりして不安を取り除いてやること。不機嫌に対しては、まずにっこりとほほえんでみること。ささやかな身体動作が驚くほど感情に効果を及ぼすことを彼は知っています。

言われてみれば当たり前のことですが、言われてみるまでわからないのが当たり前のやっかいな点です。おせっかいに過ぎるきらいもありますが、こうしたごく日常的なものごとを取り上げ、視点をずらすやりかたや想像力の正しい導線を滔々と説く彼の姿勢には好感が持てます。幸福とは何ぞやといった抽象論や、「幸福になるためのルール」といった迷信的なメッセージとは一線を画す、合理性とバランス感覚に共感できるのです。

ぽっかり時間が空いたときなど眺めるともなく眺めていると、ついついページを繰る手が止まらなくなりそうです。とりわけ、目に入るたび開きたくなる魔力を持った、優れた装丁の日経BP版を手に取られることをおすすめします。

(保田)