足摺り水族館

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物語を読む喜びは人それぞれ。無心に文字を追いかける快感、ストーリーへ没入し、ひととき我を忘れ再び返るカタルシス…。満足が大きければ、それだけ読者は良い物語を経験した幸福をかみしめます。

私にとって良い読書経験に欠かせない要素の一つが、知らない風景を目のあたりにさせてくれるということ。もっといえば、私の置かれる場所がきちんと存在させられてあるのかどうか。

わかりづらい言いかたですが、作者でさえ辿り着くことのない景色が、おのおの読んだ者に共有され、ディテールの違いはあれど共通に経験される不思議。必ずしも自覚的に記憶の蓄積から呼び出せなくとも、ふとしたきっかけで思い出すような、そこを訪れた確かな感触。こういった物語の作用に触れるとき、私はとても遥かな気持ちになります。

短篇漫画の作品集『足摺り水族館』は、こうした文脈で、ひじょうに豊かな物語性を備えていると思います。いずれの作品も主体は読み手と重なって、綿密に描き込まれた、現実をずらしたような異界へ足を踏み入れ、次第にそこでのルールを受け入れていく。そういうふうにして私たちは新しい光景を自分に落とし込み、知らない思い出を植えつけられる。

 たとえば「イノセントワールド」というごく短い作品。ここでは第二、第三の京都タワーが存在し、修学旅行ではぐれた少女がひとり街をへめぐり歩く。こわいほど歪んでぼやけた路地の空には、必ずタワーが立って彼女を導きます。夢まぼろしと言ってしまえばそれまでのシーンが、知らず知らず巧妙に読者の「そのための場所」に居座っている。それが新しく懐かしくどうにも心地よい。

収録された十数編の作品それぞれが、繊細かつ強くコントラストの利いた優れた描画によって、ありあまるイメージの喚起を誘います。どうぞ落ち着いた環境でじっくり味わってみてください。

(保田)