おじさんの「ぼく」

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世の中における「叔父さん」的存在に考えを巡らそう、という意図で書き下ろされたのが本書『おじさんの哲学』です。著者は昭和33年生まれの永江朗氏。本書を上梓する時点で55歳だという彼は、平成生まれの私にとって紛れもなく「おじさん」です。つまり、現役のおじさんによる「叔父さん」論。

そのまえがきには、著者が本の準備をするころから、文章に限って一人称を「私」から「ぼく」へ戻したという意識変革の苦悩が語られます。これまで大人らしく「私」とふるまってきたのが苦しくなったからで、かといって「ぼく」としたところで楽になったわけでもないといいます。

日常会話は今まで通り「私」で通し、文章では「ぼく」と名乗る、自己分裂の痛み。それに引きかえ、当ブログで「私」と背伸びする私は、口を開けば「ぼく」というわけで、逆転した状況ですが、いまのところ苦しさは感じません。ここのところにおじさんだけが持つ、体面と内実との抜き差しならない折衝があるようです。

それでは、世の叔父さんたちの人称はどうでしょう。

著者が掲げる、いまの世の中の「叔父さん」的存在の筆頭が、内田樹高橋源一郎橋本治の三名。きちんと調べたわけでなく、各々使い分けもあるでしょうが、「僕」(内田)、「ぼく」(高橋)、「私」(橋本)であるような気がします。叔父さんたちの一人称はばらばら、別段それでも不都合はないようです。

対して、叔父さんを叔父さんと呼ぶ「自分」というものは、はっきり「ぼく」でなければならない。「私のおじさん」ではなんだか間抜けですし、映画のタイトルにもなりません。「ぼく」とはつまり、どこまでもおじさんを必要としていたい少年性の切実な、それでいてちょっぴりずるい希求のあらわれなのです。

さて、そんなぼくたちが頼りにすべき「叔父さん」たちの気になる顔ぶれとは? ぜひ本書を開いて確かめてください。

(保田)