有次と庖丁

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「兄ちゃん、◯◯て知ってる?」

はじめて入る、こぢんまりした個人営業の居酒屋へ一人、ないし飲み友だちとカウンターに腰かける。席をおいて隣りには先客のおじさんが一人、コップを傾けている。ちらりと目が合って、常連のお客さんなのだろうか。こちらは対面の店主へ、とりあえず生ビール。ついでお通しが出て、お疲れさん。なんやこのつき出し、めっちゃうまい。でも何を使って、どう料理しているのかわからない。そこで店主に「これは一体、」。すかさず隣りのおじさんの、こちら側の耳が動くのがわかる。全然見ないでも、気配でわかる。

江弘毅さんの場合、◯◯はだんじりであったり、ワインであったり、お好み焼き屋であったりします。今回は京都・錦市場に店舗を構える包丁の「有次」。「お兄ちゃん、そのアテにかかってるネギ。香り立ってうまいやろ。ひとつには、大将が良え包丁使こてるからや。実は自分、ちょっと調べもんしててな、」。ご紹介する『有次と庖丁』はこういうふうな流れの、まさに期待通りの語り口で始まります。

著者の江さんはもちろん長年愛用は有次の和包丁、ではなく、取材時はステンレスの三徳包丁だったといいます。だからまず有次を使っている親戚の家を(こっそり?)訪ね、実際にものを切らせてもらう。そこで切れ味をはじめて体験し、素直に驚いてしまう。なぜ私が知っているかというと、ぜんぶ書いてあるからです。これがまず信用させます。

ルーツを戦国時代の刀鍛冶にまでさかのぼる老舗・有次の少々こみ入った歴史。著者はまるで、自分が百年前から当然知っていたようにさらりと語ります。ここがまた信用させる。そして多分にパーソナルな、ありのままの五感や街を歩いて稼いだ経験、友人の人脈など駆動し、生き生きと脈打つ筆運びで「有次」とは何ものかを描き出します。たちまちのうちにカウンターの若者は目の前の酒も忘れ、話に聞き入り、せまい飲み屋が活気ある学びの場へと変わります。

「ところで兄ちゃん、どこから来たん?」ひと段落つくと、おじさんは必ずこう訊きます。「いや、自分は大阪のもんやけど、お隣りの京都はまた変わったところでな、」。そうそう、包丁一本から展開されるのは多観的で奥の深い、ためになるのかわからないけどすこぶるおもしろい京都論です。さらに話題はあちらこちらへ飛び火して、でも脈絡のなさそうに見える個々のトピックが、やがて知恵と知識の大きくゆるやかなまとまりを形成します。

きっと街場の文化、私たちのフォークロアというものはこうして夜な夜な作り伝えられ、そして間違いなく同じ文脈に組する本書なのです。

(保田)