悪童日記

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映画『悪童日記』を劇場で観ました。私は先に原作の翻訳小説(アゴタ・クリストフ堀茂樹訳 / 早川書房)を読んでいたので、映像で後追いするかたちになりました。こうすると物語の筋が頭に入っているので、映画の展開が読めずはらはらする楽しみは減りますが、そのぶん落ち着いて細部へ目を凝らすことができます。原作に忠実なシナリオで、良い意味での裏切りもなく、それがかえって目に見える動きや音声を伴う映画ならではのインパクトを際立たせるように思いました。

本作に関しては、映画を観る前にしろ、観た後にしろ、原作へ触れるのを私はおすすめします。こと小説に限って、主たる魅力はその文体にあると考えるからです。語り口のすばらしさが、この作品の良さを決定づけています。

語り手は主人公の双子の少年。第二次大戦末期、敵軍の攻撃から逃れるため親と離れ、会ったことのない祖母のボロ家に疎開し、過酷な労働を強いられます。そこで彼らのつける日記がそのまま作品であるというメタフィクション的な体裁で、われわれ読者はそれを盗み見る立場に設定されます。いわば『アンネの日記』のフィクション版。

日記それ自体の記述の中で、日記のルールが明かされているのがおもしろい点です。ルールはひとつ。純客観的な事実のみを記すこと。これを採用するのが書き手である少年たち自身であり、この決まりを例外なしに遵守するのも彼らであって、生き残るためにそうしなければならない切実さがまことに痛々しいのです。

ルールとはつまり彼らの倫理であり、客観的見地というのも結局は彼らの主観のフィルターを通したものに過ぎません。お互いの作文を添削し合って「良」と判断したものだけを日記に清書するので、二人の間の幼い相互批評にのみかろうじて客観性が担保されるわけです。ただし彼らの人格は二人でひとつ。いつもどこでも一緒にいて、どちらが欠けても成り立たない。そこからの脱皮が物語の終盤のハイライトになっています。

自分たちの倫理を即、行動原理に結びつける少年の純粋性は、たとえ戦争という異常な状態にあっても社会との軋轢を生まずにいません。しかし、そのむき出しになった非人道的な環境が、異様に研ぎすまされた純粋を育むのが戦争の恐ろしさです。

翻訳もすばらしい本書。優れてシニカルな邦題ですが、原題は「大きなノート」といった意味のようです。ハンガリー生まれの無名の著者が、亡命先のスイスからパリの名門出版社へ無謀にも原稿を送りつけたのが出版のきっかけだということですが、邦訳者もパリの書店で偶然発見した原書に入れ込み、早川書房へ翻訳を送りつけ日本語版の刊行にこぎ着けたというのも因縁があって良い話です。

そうしたエピソードも楽しみつつ、小説の語りのおもしろさを存分に味わわせてくれる本書。この機会にお手に取ってみてはいかがでしょう。

(保田)