『富士日記』(著者:武田百合子)の上巻を読み終えて。

f:id:keibunsha3:20141126133558j:plain

12/17(水)の20時から、当店イベントスペース・コテージにて【コテージの読書会 vol.1】(主宰:ミズモトアキラ氏)が開催される。課題図書は、武田百合子の『富士日記』。日記文学の最高傑作と名高い本書だが、読み手の私は日記文学に触れたこともない超初心者。早速読まねば、と半ば焦りつつ当店の本棚向かうと、なんとも分厚い上巻・中巻・下巻がずらっと並んでいた。手に取り、これを物理的にも、内容的にも読み切ることができるのか…不安に思いながらとりあえず家に持ち帰り、数日熟成させてからついに表紙をめくることとなった。

人の日記(日常)を読む、という行為はブログやSNSが発達した現代ではさほど珍しくない。しかし本書は、「これは山の日記です。」という一文から始まるように、最初は「非日常の日記」として記録されていることが興味深い。始めはまだ日記としての文体が固まっておらず、書かれている内容もまちまち、分量も短い。東京と山とを往復する中で少しずつ山小屋や周辺の人たちとの関係を作り上げていくのと同じように、月日を経て日記の形式もだんだん固まってくる。天気、朝昼晩の食べたもの、買い物したものとその値段は必須。時折家族の会話や村の人から伝え聞いたことが、文化人類学者ばりの精密さで記述されている。基本的には淡々とした口調で客観的に語られ、当初読書初心者の私としては何が面白いのかわからなくなっていた。知り合いのブログは面白く読めても、武田百合子や富士山と全く関係なく暮らしてきた自分は、どう読み解いてよいのかわからないのだ。それでも読書会に向けて、こころに引っかかる部分に一つ一つ付箋をつけて読み進めてみる。

だんだんわかってきたのだが、ブログのように人に読まれることを(基本的には)前提としていないからか、それとも単に著者の気質か(後者のような気がする)、どうも文章にムラがある。自分のことを「私」と言ったり、「百合子」と言ったり。飼い犬のことを「ポコ」と呼んだり、「犬」と書いたり。ほとんど淡々と事実が述べられているのに、ものすごく腹が立ったことや感激した出来事はとても感情的でドラマチックに描かれているので、不意に引き込まれてしまう。上巻の途中からだんだんと武田百合子のスタイルが構築されつつあるようだ。日常と非日常を行き来しながら、その鋭い観察力と洞察力で生を見つめた彼女の感性に気づけばすっかり魅了されてしまった。

しかしながら上巻を読み終えて、改めて『富士日記』のどこが面白いのかどうかを考えてみるとやっぱりわからない。また不思議なことに付箋をつけた部分を振り返ってみても、なぜ昔の自分がそこに印をつけたのかわからないところもある。『富士日記』はまるで「私」を映す鏡のようだ。面白いとか面白くないとかそんな陳腐な尺度を超え、生についてふと考えさせるような不思議な一冊であった。読書会では様々なバックグラウンドを持った人々が集まり、きっと印をつけたところには、その人ならではの物語がつまっているにちがいない。『富士日記』を通して、どのような個々の生を共有できるのだろうか。行ってみなければわからない、貴重な出会いと経験が今からとても楽しみである。

ちなみに読書会はまだまだ参加者受付中です。課題図書は全て読み終えている必要はございません。少しでも興味がある方は、この機会にぜひ。記念すべき第1回目のコテージの読書会、たくさんのご参加お待ちしております。

(冨永)

【関連ページ】
コテージの読書会 VOL.1|COTTAGE|体験を共有する、新しい「場」のカタチ(イベント詳細ページ)
武田百合子『富士日記』をじっくり読みながら美しい文章について語り合いたい。ミズモトアキラ氏HPより)