素湯のような人を想像してみる

f:id:keibunsha3:20140313155044j:plain
先月より当店入口奥の壁面でパネル展開している『素湯(さゆ)のような話』(ちくま文庫/岩本素白早川茉莉編)。西淑さんのカバー絵がかわいらしいこの随筆選集を、毎日一、二篇ずつ、金平糖のつぶを溶かすように味わっています。

間違っても本読み、とは恥ずかしくいえないような私でも、うまい文章だ、と恐れ入る気持ちで頁を繰ります。即物的に例えれば、口当たりよく、噛めば噛むほど味の深みの増す食べもの(ゆで豆だとか米飯だとか)のよう。

絶妙な歯ごたえで、おもしろい言葉、今も昔も人の使わないような漢字や読みが時々こりっと出てきます。固有名詞にしても、現代人の知らない物の名前や形容が多いです。それはわからなくてもいいというのがものぐさの私の考えで、想像しながら食感を試してみます。

ひとつ引用してみると、これは著者の愛用していた竹匙が最近見なくなったという話で、「あの、長さにして三四寸、皮目を附けてそれが磨きになっている、器用な柄(え)にわざと一と節(ふし)入れたりなどして、先の楕円の浅い凹みに朱漆の掛けてある竹の匙は、」(本文18p『竹の匙』より)とあります。

ものの様子はなんとなくわかりそうでも、はっきり実像が浮かびません。これが書き手のたくらみなのか、それともその道の人にはわかるものなのか、いずれにせよ想像にぐっと引き込まれる描写ではありませんか。

など、先生の人となりを想像しながら読み進めるのですが、これはパネル展の準備で壁に虫ピンをとんかちしていた時のこと。先生を写したポートレイトをじっと間近で眺めていると、口を結んで謹厳な表情の中に、どうかしてこの人は相当くだけた冗談も平気でいう人だったのではないかしら、という印象が立ちのぼってきました。

文学者を写真や顔でとやかくいうのは邪道だとお叱りを受けるかも知れませんが、いかがでしょう。およそ作品を気に入るほど書いた人の容姿まで気になるのが人情で、写真でも何でも、とっかかりのないところに想像力は働きません。

「白湯(さゆ)」ではなく「素湯(さゆ)」を選んだ、それがなんだか素敵だという感じや、どうしてだろうという疑問からでも入っていければ、好ましいように思えます。


(保田)