便覧に載らない名作

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ほのぼのした表紙のイラストに惹かれて手に取った『てんやわんや』(ちくま文庫)。ひっくり返せば昭和を代表するユーモア小説とありますが、私は獅子文六の名前を知りませんでした。著者略歴には本名・岩田豊雄とあり、むしろこちらのほうにピンときたのが不思議です。

本名名義の作品を読んだこともないのにどうしてかといえば、国語便覧に名前があるのをぼんやり憶えていたからでしょう。高校時代、私のいちばんの愛読書は一年生の始めに配られた国語便覧でした。通学中のバス車内など、暇さえあればどこか開いて眺めていた気がします。勉強のためというわけでなく、一体なにがおもしろかったのか、それでもそこでたくさんの作家や文学作品の名前を覚えました。

便覧ではおそらく近代文学史の項、岸田國士久保田万太郎らと文学座結成の文脈で掲載されていたはず。ペンネームである獅子文六の名前が出ていたのか憶えていません。高校の教科書に何でも網羅されているはずはなく、私の読書がそのなかの知らない作家をつぶしていくというものであっただけに、今ごろになってこういう「掘り出しもの」的な作品と出会うことが多いです。

そうして本作、これは戦後間もない昭和二十三~四年にかけて新聞連載された長編です。二十三年は、同じく新聞に連載を持っていた太宰治が未完のまま入水自殺を遂げた年。性格は異なりますが、両者とも当時押しも押されぬ文壇のスターであった点共通しています。

物語の筋は漱石の『坊っちゃん』を彷彿とさせる青春絵巻ですが、別に注目したいのが文章そのもののおもしろさ。ぐいぐいくるリズムがあって、とにかくテンポがいい。読みはじめ見る見る引き込まれ、あっという間に第一章が終わっています。「読者諸君!」の一語も文学史にめずらしい名冒頭ではないでしょうか。時代のシリアスを笑うゆるいスイング感がすこぶる気持ちよく、方言まじりのおしゃべりや地文の流れるような独り語りをとくと味わっていただきたく思います。

このたびの復刊を喜ばれる平松洋子氏の巻末解説も見事です。表紙イラストの主人公・犬丸順吉がまた、ソデの著者の写真にそっくりなのも笑えます。ぜひ併せてお楽しみください。店頭日本文学のコーナーにて販売中。

(保田)