作家の手紙でお手並み拝見

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思えば手紙を書くことがありません。小学生中学生のころ、わざわざ投函するほどもない近所の友だちへ年賀状を出したりしていましたが、あれだって印刷された書面のすみにひとこと書きつけるだけでした。手紙をもらったこともありません。だから手紙を読む自体、独特のルールやお約束を理解する難儀さも含め、私にとって新鮮で刺激的な読書体験です。

先月復刊された『手紙読本』(選:江國滋 / 講談社文芸文庫)は、明治から昭和前期にかけて文豪と呼ばれる人びとの残した書簡から、テーマごと選者のお眼鏡にかなったものを取り集めた一種のアンソロジーです。といってその数膨大なので、収録された文士の名前をいちいち挙げることはしませんが、どれも名前を見て顔の浮かぶほど良く知られた作家ばかりです。

そもそも人の手紙など読むものではない、とはまえがきに選者の述べる通りです。しかし文学者の伝記研究となれば避けて通られないのも事実で、専門家でなくともお気に入りの作家の私信は読んでみたくなるのが人情でしょう。その人の素顔を覗き見したいという興味から出るのですが、果たして文章のプロたる作家たち(つまりは作家になるほど感情や表現に並人はずれたこだわりをもった曲者ぞろい)が、そう易々と自分の素顔なるものを見せてくれるでしょうか。

いざ自分がお手紙書こうすればわかることで、まず誰に読まれても恥ずかしくない体裁を整えようとします。日記と違って、いちど人の手に渡れば恣意で処分するのも難しく、ある程度は公開を前提として書かれたもののはずです。さらにここへ収録された書簡の多くは作家が作家に宛てて送ったもの、いうなれば文を生業とする同業者どうしの一筋縄ではいかないやり取りが展開されているわけです。差出人と宛先人の関係をきちんと把握すれば、別の意味で読解のおもしろさが深まるはずです。

また、内容や希望の正確な伝達が至上目的の手紙です。いかに効果的に自分の思いを届けられるか書き手の腕にかかっていて、たとえイタズラ文にせよ嫌みや皮肉がきりっと絞られていなくては伝わりません。シチュエーションを理解するところに書き手の腕前を味わう楽しみがあるのです。

その意味で、礼状/見舞い状/祝い状/悔やみ状とシチュエーションごと細かくまとめられた本書の構成は見事で、さらに「書くべき手紙」「書きたくない手紙」など大きく括ってあるのもおもしろい。「読みたくない手紙」の項に恋文が入っているのは、演芸評論家として長く健筆を振るった選者によるユーモアの冴えでしょう。

唯一残念なのがすべての手紙が活字に起こされている点で、これは仕方がないのですが、機会あれば作家の直筆書簡を見ることで、各人の文字の表情をも汲み取ってみたいものです。

 

(保田)

読書の季節にぴったりの大型評伝

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ずしりとした一冊。平積みにしていても、そこだけ重力が異なるような存在感があります。じっさいの分量以上に重厚な雰囲気。タイトルも意味深です。表紙の装画に使われたダーガーの、樹上でほほ笑むヴィヴィアン・ガールズはいったい何を示唆するのでしょう。

2008年、101歳で往生を遂げた石井桃子の評伝『ひみつの王国』です。彼女の生涯と経歴を手短にまとめるのさえ、どのように手をつけてよいのか惑うほど多く仕事を遺し、またそれら活動のひとつひとつが昭和の文芸、とりわけ児童文学へ計り知れない影響を及ぼしました。

そんな足がかりのないように見える巨大な氷山へ果敢に挑戦した本書。最晩年の石井本人へのインタビューや関係者への取材は、この期を逃しては取り返しのつかないチャンスを捉え、著者自身さまざまなゆかりの土地を訪ね歩いたようです。

そしてそれら膨大な資料と証言をまとめ描ききった筆の力と編集技術、熱量にはただただ頭を垂れるしかありません。読者にもそれだけの読書体力を要求する作品であり、でもへとへとしながらもページを繰る手が止まらない抜群のおもしろさです。

とりわけ興味深いのは、2013年「新潮」誌上へ先行掲載された「石井桃子と戦争」の箇所。本人が頑なに口を閉ざした太平洋戦争期の足取り、もっとも大きく深い謎を、わずかな手がかりから鮮やかな像へ結んで本書のハイライトとなっています。

まだお手に取らない方にとっては、この秋の読書にうってつけの手応えある長編。時間をかけて通読すれば、長距離走を駆けきったようなすがすがしい達成感があり、名づけようのないはるかな物思いにとらわれることでしょう。店頭では本書を中心に、石井桃子の創作、エッセイ、翻訳絵本を取り揃えたコーナーを展開しています。お立ち寄りのさいはぜひご覧くださいませ。

(保田)

ミシマ社さんと2冊の新刊

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先日。川端丸太町へオフィスが移ったミシマ社さんで行われた、刊行記念のパーティへお呼ばれしました。このたびの新刊は、『近くて遠いこの身体』(平尾剛著 / ミシマ社)と、『失われた感覚を求めて 地方で出版社をするということ』(三島邦弘著 / 朝日新聞出版)の2冊。新オフィスは築年不明という古い一軒家で、お座敷には代表の三島さんをはじめ、著者の平尾さん、装丁を手がけられた矢萩多聞さんの姿も見えました。

すでに店頭へ並べていた三島さんの著作を、その日のうちに読了し、煮えきらない気分を抱え宴会へ向かいました。煮えきらないというのは、その理由をうまく言葉にできない危うい感じで、捉えどころがないというのか、それでもって心を捕えられるようでした。文章はやさしく、すらすら読み進められるにもかかわらず、全体がうまく掴めない。意図的にか、混乱が混乱のまま提出されている感じで、はじめて出会う文章でした。

驚いたのが、本書を貫通するダークさです。三島さんの前著『計画と無計画のあいだ』に見られた、まっすぐで明るい勢いが退き、同じ読者を引き込むのに出口の見えない迷宮を堂々巡りさせる不穏な感触があります。東北震災を前後して書かれた2冊を比較すると、それによって隔てられたトーンの対比を眼前に見るようです。

こうして、とりとめもない戸惑いをもって宴席へついたのですが、救われたのは他ならない前述のお二人の言葉でした。平尾さんは「混乱にじたばた苦しむ様子が身体ごと伝わる」とおっしゃり、多聞さんは「読み終わってまた冒頭へ戻りたくなる循環性がある」と述べられました。論理立てて解決されたわけではないのですが、不安のいち側面を言語化されたようでほっとしました。

出版業界の「東京一極集中」から脱出を図ったことで、一度は失われた感覚。その感覚をふたたび取り戻す過程を描いた本書ですが、三島さんがお仕事の上で最も大切にされるそれを理解するには、今後の出版物や社の動きを注意深くウォッチしていく必要があるようです。

なお今月23日(木)当店にて、三島さんと、ご紹介した著書にも登場するバッキー井上さん、および株式会社はてな代表の近藤淳也さんによる出版記念トークイベントを開催いたします。ミシマ社さんの今後のご活動や、京に住まう魑魅魍魎にご興味をお持ちの方は、ふるってご参加くださいませ。


(保田)

毎夜一話のたのしみ

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お彼岸を前にして、朝晩ずいぶんと過ごしやすくなっています。日没の早い気がするためか、就寝時刻まで余裕のある感じがして、とっくり読書へ耽るという方も少なくないのではないでしょうか。騒々しい蝉も秋の虫にかわって、月あかるく空は静まり、いつもよりページを繰る手が捗るようです。

ここのところ私は毎晩、部屋の灯りを小さくして、眠るまでのひとときひとつずつ短かな物語を読み進めています。初版が1991年、今年6月に待望の復刊となった岩波文庫フランス短篇傑作選』です。編/訳者は小説家でフランス文学者の山田稔氏。前世紀末から20世紀にかけて、フランスの優れた18の短編小説を取りまとめたアンソロジーです。

アンソロジーの良い点は、初学者にとって知らない作家の、知らない作品へ偶然のように出会えること。読み進めるほどに新鮮さが増し、読書の幅が広がっていく実感に胸が躍ります。じっさい、私も収録された多くの作家の名前を知りませんでした。そんななかお気に入りの一編と巡り会えば、当たりくじを引いたようにほくほく幸せな気分に満たされます。

本を閉じて横になり、読んだばかりの物語を思うのは夢心地です。筆の冴えに感じ入り、美しい景色へため息ついて、訳者の仕かけたユーモアにくすくす笑う。安眠間違いなし。さらに本書で何より嬉しいのが、目次に並ぶ作家の顔ぶれです。

じつは彼らの作品集は大半が絶版になっており、入手するのもひと苦労。大きな図書館へ行けば見ることができるでしょうし、あるいは、気になった作家の名前を頭の片隅へしまっておいて、古本屋をのぞくたびに書棚を注意してみるのもおもしろいはずです。

当店では少ないながら、現在手に入る本を集めた特集台を展開しております。店頭へお立ち寄りのさいはぜひチェックしてみてください。

(保田)

まっとうさ

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手にしたとたん、特別だと直感する本があります。自分にとってということでなく、個人の尺で計れない文脈に属しているような感触です。ご紹介する『大坊珈琲店』はそのひとつ。昨年末、38年間の営業にピリオドを打った喫茶店のお話です。

お店じたい、そういった特別な場所であったようです。「ようです」というのは、私がそこを訊ねられなかったから。知ったのはすでに閉店後、本書の前身にあたる私家版が当店へ入ったさいでした。限定1000部のうち貴重な数十部をお分けいただき、入荷即完売、お問い合せ多数といった異例を目の当たりにしました。個人出版の本がこのように売れるというのも類いまれですが、いち喫茶店の消滅が事件になることが印象深かったのです。

当店で開催した、オオヤミノル氏と岡本仁氏のコーヒーにまつわるトークイベントでも、六曜社のオクノ修さんと並んで多く言及されていたのが、大坊勝次氏でした。(オオヤ氏と大坊氏の対談は『美味しいコーヒーって何だ?』で、岡本氏と大坊氏の対談は『BRUTUS No.779 喫茶店好き。』でそれぞれ読むことができます)。

これら語らいの中心には、「まっとうさ」というキーワードがあるように思います。まっとうな店。まっとうな珈琲。感覚に過ぎるこの姿勢を、大坊氏は本書に収められたマニュアルというかたちで説いています。説くといっても、言って聞かせるのでない、見せて伝えるといった、より確からしい方法です。

そうして、まっとうな一冊。まっとうな言葉の集まりにふさわしい姿をこの本はしています。活字のなつかしさ、品のある余白の取りかた、頁を繰るうちの紙の変化。非の打ちどころがないように思います。たとえ大坊氏のいれる一杯を味わわない私でも、どこまでも真摯な気がまえに触れられる嬉しさです。

(保田)